「今現在、僕は県内の半導体事業所に働いています。
今の事業所に就職したきっかけは、高校時代に卒業した先輩から「うちはいい会社だよ!!是非入ったら!」と誘いの言葉を言われて自分で考えた結果、決めたのです。
それで、会社入社した後、他にろう者の先輩が何人か働いていると聞きました。
それで僕がこの職場に入った時、ろう者の先輩が何人かいました。しかも、職場内には半分が手話、指文字が出来る同僚がいました。
僕が思ったのは、「もし職場に入ったら最初から一生懸命に働きながら、同僚たちに手話を教えよう」と考えていました。でも、手話、指文字が出来る同僚がいてビックリしました。
でも、この職場に決めたんだから、一生懸命仕事をしなければならないなと毎日一生懸命仕事をしていました。その時の会社は、他職場に働く聴覚障害者が何人かいました。合わせて30人くらいはいました。でも、会社の不景気などにより、自主退職・早期退職をした聴覚障害者がいて、今働いている聴覚障害者は3人と少なくなっています。
この会社は、聴覚障害者に理解を持っている健聴者が何人かいるけれど、残念ながら聴覚障害者に対する設備がありません。
それは、もしパトライトをつければ火災時に赤いランプが点灯して聴覚障害者が見て分かるようにして欲しいとか、手話教室を設けて手話を学ぶ場を作って欲しいなどを要望を出したことがありました。
今は、世界中に半導体関連の工場が沢山あって、多くのライバルが出ています。厳しい状態になって将来の見込みはわからないけれど、いつも通り働いています。
私は、顔面肩甲上腕型筋ジストロフィーという病気があり歩ける距離がとても短いので電動車椅子を使って生活しています。
就職活動を始める時、ネットで障害者専門の就職サイトを見つけて登録しました。クローバーナビや、サーナというサイトです。そのサイトでは、障害者雇用をやっている会社の求人を閲覧できるようになっていて、障害種別ごとに検索したり働きたい都道府県ごとに検索できたりします。私は、その中から群馬で働ける正社員の求人を見つけて応募していきました。サイトに自分の障害のことや個人情報を最初に登録しておくと、求人に応募するときに1回1回自分の情報を入力しなくて済むのでとても便利でした。それらのサイトは、障害者雇用専門の就職説明会や合同説明会も開いていて、たくさんの企業と出会えるので何回か参加しました。合同説明会に行くと、障害者採用をやっている企業(大企業が多い)の人事の方と直接話すことができ、履歴書を受け取ってもらえることもあります。それが第一次面接になることもあります。合同説明会で出会った障害のある人と友達になることもできました。
私は、それらのサイト以外だけでなく、大企業のホームページの採用ページをチェックして「障害者雇用」の情報がないか探していました。多くの大企業では、障害者採用の情報を公開していますが、群馬で働きたい私に合う求人は少なかったです。また、一部の企業では独自の障害者向け就職説明会や障害者向けインターンを実施していることがあります。私は、JTBの障害者向けインターンとJRグループの障害者向け就職説明会に参加しました。JTBのインターンでは、実際にJTBで働いている障害者の方とお話を聞いたり仕事に関する課題を問いたりしました。JRグループの就職説明会では、JRグループに属する10数社の採用担当の方とお話しすることができました。障害者雇用を担当している方が多いので、安心して話すことができました。その中から3社くらいを選び応募しました。そして1社から内定をいただき、最終的にそこに就職しました。
障害者専門就職サイトからの応募、企業の採用ページからの応募、インターンや就職説明会からの応募という方法で、合計約30社くらい応募しました。そのうち3社から内定をいただき、就労場所や条件などから1社を選びました。
通っていた大学内に、学生の就職をサポートする機関があったのですが障害者向け求人はなかったのであまり利用しませんでした。数回ハローワークに行って障害者雇用の求人を探していただき、2社くらい応募したのですが内定はいただけませんでした。
就職活動は、電動車椅子で電車に乗って2時間かけて東京に通っていました。働く場所を群馬に指定していても本社は東京にあることが多いので、面接や企業説明会のために20回くらい東京に行きました。連日東京で就活イベントがある時は、東京でホテルに泊まったりすることもありました。
会社を選ぶ条件として私は、「車椅子で働ける」「多目的トイレが近くにある」「事務の仕事」「群馬で働ける」「正社員」という項目を設定して就活をしました。採用担当の方々は、じっくり話を聞いてくださる方が多く、社内の障害のある社員のことを教えてくださることも多かったです。就職活動を始めた時は、周りに同じように障害があって就職活動している人がいなかったので不安もありましたが、合同説明会で出会った障害のある友達と連絡を取り合って情報共有していくうちに段々と自信もついてきて、自分に合う会社を見つけることができました。今は、ハローワークだけでなく、障害者用の就職サイトや、障害者の就職をサポートする機関がたくさんあるので、1つではなく複数の方法で就職先を探すことで、より自分に合った職場を見つけられるのではないかと思います。
「Don't Worry (心配しないで)」
K男(23歳)の母
アスファルトに自分の頭を打ち付けて、額から血を流しているK男。
自分の握り拳で、力一杯自分の頭を殴っているK男。
手を握って止めているのに、交通量の多い道路に飛び出そうとするK男。
何に苦しんでいるのか、何をしたいのか、言葉にできないK男は、このような行動を取ることが多かった。
せめて抱きしめてその場から離れようとするが、その抱っこも嫌がり泣き声はエスカレートする。
その様子を見て、同情のまなざしを向ける人、中には「もっと抱っこしたり一緒に遊んであげた方が良いわよ。」と、アドバイスしてくれる人も。
そして私はますます自信をなくす。
抱っこさせてくれないんです。
いっしょに遊ぼうとしても、私はその場に居るだけなんです。
K男はK男の世界で一人で遊んでいるんです。
とにかく多動で、目の離せない子だった。眠る時でさえ、抱っこや添い寝を嫌がった。
今日の夜は一緒に眠れそうだと思っても、突然ムクッと起き上がりいつも通り布団の周りを走り出す。
何周も何周も。無理矢理引っ張って布団に入れようとしても、結局同じだ。
親の方がウトウトしてしまう。
気づくと、部屋の隅で倒れるようにK男が寝ている。
冬などは、冷え切った体を抱えて布団に入れながら「風邪を引きませんように。」と祈ると同時にまた自信をなくす。
公園などで「ママ」と抱きつくお子さんを見ると、羨ましくて仕方なかった。ママの膝の上で、ママと見つめ合っている赤ちゃんがいると「いいなぁー。」と、呟いていた。とにかく、その日1日が終わることで精一杯だった。
K男が保育園の時、ある事に気がついた。
とある交差点にさしかかると、K男が暴れるのだ。チャイルドシートに座っているのに、足を伸ばして運転席を蹴る、隣に誰か座っていればその人をぶったり蹴ったりする。
だが、毎回ではなく、その交差点を通っても静かに座っている日もある。
何故だか分からず、ただ危険なのでなるべくその交差点は通らないようにしていた。
ある日、K男が好きなアンパンマンのビデオを借りに、ビデオやさんに出かけてその交差点を通った時にようやく気づいた。K男は暴れていない。「この交差点を右折するとビデオ屋さんがあるから、そこへ行きたい!」という意思表示だったのだ。
ある時期K男の興味の対象はキュウリで、スーパーで迷子になったと思ったらキュウリ売り場の前に居た。
ある時期は自動販売機の売切の点滅だった。
それが見たくて道に飛び出そうと必死だった。
何に対して怒っているか、興味を抱いているかが分かれば、こちらもある程度対処できる。
違う道を通る、予め自販機を見せてから目的地へ移動する、等だ。(だが、実際はそう簡単ではなく、推測が外れて何度痛い目に遭ったことか・・・それでも、今度は飴かな?今度は自動ドアかな?と、推測するのは宝探しのようなワクワク感もあった。)
そんな珍道中を続けていた小学部の時、K男がアンパンマンの似顔絵(かなりいびつなアンパンマンだったが、なんとかアンパンマンに見えた。)を描いている姿を見て、ふと思った。
「顔の表情で、K男の気持ちを表せないだろうか?」
そして、別紙にあるような「目と口だけの絵日記」が始まった。
学校の予定表や児童デイの連絡ノートを見て、その日の絵日記のテーマを決め、私が顔の輪郭と体を描いておく。
そして、機嫌の良さそうな時を見計らってK男に声を掛ける。
(例)「K男、バスに乗ってちゃんと座ってたんだね。偉いね。」
なるべくポジティブな言葉を選んだ。するとK男は目と口を描き入れた。
驚いたことに、照れたような口元を描いた。
ある日は、学校の図書室に行ったことをテーマにしたつもりが、私に歯みがきをしないことを注意された気持ちの表現になった。そんなに怒られるのが嫌なんだーと、笑ってしまった。
学校でひらがなの練習をしたこともあり、高学年になったら少し文章も書くようになった。
同時に、口頭でも「~に行きたい。」とか「~が食べたい。」とか言えるようになり、気がつくと額から血を流して頭を打ち付けるようなことは少なくなっていた。
意思表示できるってありがたいことなんだなーと、今更ながら感じる。
困っている方がいたら、ハンドサイン、絵カード、写真等本人にマッチするツールが見つかると良いと心から思う。 (とは言え、聴覚過敏なK男は雷が鳴ると号泣し、時には地団駄踏んだ。
とても賑やかな場所には、今でも長く居られない。例えば○○ランドは「もう行きません!」と、宣言している。)
中学部に入ると、小柄なK男も先輩方に混じって就業体験が始まった。
立ったままで何時間も作業を続けるのは、飽きっぽく体力のないK男には辛い事だったと思う。が、ちゃんと先生はK男の周りに先輩が居るように場所を決めてくれた。
顔を上げると先輩の黙々と頑張る姿が見えるわけで、就業体験の大切さや厳しさを学べたと思う。また、就業体験の最後には、楽しいお疲れ様会を企画してくれた。
仕事を頑張る→工賃がもらえる→良いことがある
この流れも、回を重ねるごとに実感していったと思う。本当にありがたかった。
作業所で働いている今、疲れてイライラしている時はこの合い言葉を使う。
(母)「頑張ると。」 (K男)「いいことがある。」
(本音を言うと、スムーズに全てが進んだわけではない。
やはり疲れる就業体験、朝は起きられない、時間になっても登校しようとしない、いつも以上にブツブツ言っている・・・そういう時は先生にそっと連絡して様子を見て貰ったり、休日にK男の好きなおやつや食事を用意したりと、親にとっても修行?体験だった。)
高等部になると、外部の作業所へ作業実習に行かせて貰った。帰宅後のK男の様子で、「何となくイライラしてる。仕事内容がK男には難しすぎるかも?」
「あまりブツブツ言ってない。この仕事内容、好きなのかも?」
親の方もドキドキの実習だった。ありがたいのは、忙しい中、実習先の方がその日の様子を知らせてくれたことだ。「~の作業で躓いていたのでアドバイスしたら、その後はいい顔つきで取り組んでいた。」「午後の作業はさすがに疲れてしまったようだ。」等、親子共々課題も与えて貰った。(体力をつけなければ!と、一緒に公園を歩いたりした。親の方が先に疲れて引き返すことが常だったが・・・)
高等部3年生になる頃には、「ここの作業所にお世話になれたら!」と、気持ちが固まってきたように思う。
そして今、K男はお陰様で休まず作業所へ通い仕事をしている。
もちろん、初めからスムーズだったわけではない。学校と違って休み時間に楽しんだブランコや滑り台もない。休憩時間でもないのに、勝手にロッカールームに隠れて寝ていたり、作業室の隅の柱に隠れて座っていたり・・・と、エピソードには事欠かない。ありがたいのは、作業所の職員の皆さんが優しく、時に厳しくK男を指導してくださることだ。我が儘なK男が仕事を続けられているのは職員の皆さんのおかげと、心から感謝している。温かく見守って下さる先輩利用者さんにも、感謝の言葉を伝えたい。
ただ、心配事がなくなるわけではない。
細かいことで言うと、歯みがきやひげ剃りはまだ親が仕上げをしないと駄目なレベルだ。爪切りに関しては、血が出るまで切ってしまうので、本人が自分で切る事を拒否している。
最も大きな問題は、親亡き後のK男の生活のことだ。この件については、まだまだ課題が多すぎるので継続して調べ、学んでいきたい。
Suicaに関しては別紙の通り。セ○○でチャージの練習を何度もして、少しは慣れたかなと思った頃、ロー○○でチャージしたらやり方が違う・・・K男はパニック!
だが、今までの経験でコンビニの方は理解があり温かい目で対応してくれる事を知っている母は、慌てない!「そういうこともあるよねー。」と笑う。すると、K男も振り上げた拳をスッと下ろす感じだ。母がへこまないと、K男のパニックも軽く済む。
思えば、療育機関の先生、お医者さん、相談支援員さん、児童デイの職員、学校の先生、作業所の職員、グループホームの職員の方々に本当に色々教えて貰った。更に、コンビニで、バスで、図書館で、床屋さんで、時には道路で・・・至る所でたくさんの方に助けて貰った。この場を借りてお礼を申し上げたい。 「本当にありがとうございました。おかげ様でK男は生きています。そしてK男のペースで働いています。これからも色々ご迷惑をお掛けすると思いますが、どうぞよろしくお願いします。」 ママ友にも支えて貰った。一人じゃなかった。だから、これからもいろいろあると思うが、以前ほどクヨクヨしてはいない。もし、以前の私のようにお子さんの行動で悩んでいるお母さんがいたら、療育機関に相談すると共に、同じ悩みを抱えるお母さんと会ってみてほしい。お互いに悩みを打ち明けることで、私は気が軽くなっていた。そして、その会話の中で何かしら解決策が浮かんだり、少なくとも今後の方向性が見つかったように思う。自分一人だとネガティブ思考に陥りがちだが、お友達と一緒だとポジティブになれた。その空気は子どもに伝わっているように感じる。
ということで、最後にお伝えしたいのはこの言葉。
「心配しないで。何とかなる。」
当時長男中学三年生・長女小学六年生・次男小学四年生。シングル家庭で生活に必死でした。
三人の子供を育てながら長女の理解できない行動に毎日苛立ち、高学年になった娘に愛情を注げなくなりました。
発達障害の中でも症状は様々ですが娘は物事の組み立てができません。例えば生理を迎え汚物を捨てる事もせず、その辺に捨ててあるのです。限界が来た私は知人に相談すると病気の一種では?と言われ私には何の病気かもわからず、病院を紹介され始めて『発達障害』という言葉・病気ということを知りました。受診が終わると今まで理解できなかったことが全て解決したのです。
気付いた時には娘は小学六年生…
小学校に入学してから、周りの人からは「変わった子」と言われたり、シングルで育てているから子供がおかしいと世間からは心ない言葉を沢山言われてきました。また私自身も娘の理解できない行動に手を挙げる事や、今思うと虐待になっていたのではないか…と。
病院の先生から娘の行動の理由や心境を説明された時に、涙が止まりませんでした。
どうしてもっと早く病院に連れて来てやれなかったのだろう。
どうしてもっと早く発達障害と気付いてやれなかったのだろう。
どうしてあの時、私の一方的な気持ちであんなに娘にきつく当たり傷付けてしまったのだろう。どうして。どうして。の後悔がいっぱいになりました。
まず、母親である私の言動・行動を深く反省し娘に謝りました。その時娘から浴びた言葉は「ママは●●なんか死ねばいい」って言ってたよ。と…
いつも娘を叱りながらそんな言葉も発していたのです。何を言っても娘の行動が変わることもなく自分の思っていることを伝えてくることがなかっただけに、この子に私の言葉が耳に入っていたんだ。とハッとし同時に大きなショックと後悔に苛まれました。
娘が傷ついたことは一生消えないと思います。
過去は消せない。
でもここから変われる。だから娘をより理解し一番の理解者として寄り添っていこうと決めました。月一の通院では私自身もカウンセリングを受け、私には当たり前の事でも娘には当たり前ではないことに対して、どう物事を教えていくか?など少しずつですが私自身も理解できるようになっていくと、娘も変わり始めました。
そして娘は時代の最先端を行く自慢の娘となり再来年には二十歳を迎えます。
相変らず片付けが苦手ですが、自分の得意分野を生かし親元を離れ生活し自立しています。
娘の事をきっかけに、私は「当たり前」は当たり前ではなく、そして誰にでも素晴らしい個性がある事を教えてもらえました。
小学校六年生後半から中学卒業するまで素晴らしいお医者様に通わせて頂いたお陰で今の私達親子がいます。
わが子が発達障害と気付くことの大切さと、その子に合わせた物の見方、社会でどう接していくかなど教えていくのは親の責任です。
認める事はお互いにとって幸せへの道になる事を知ってほしいです。
娘のことがようやく落ち着いて来たら…
次男が学校へ行かなくなり徐々に部屋からも出て来なくなりました。
次男、小学校六年生後半
最初は娘と同じ?とも思いましたが明らかに違い、人と接触することを嫌がりそのうち食事も家のものは汚いと感じるようになりドアノブも触れなくなりました。
元々幼いころから拘りの強い所は多少ありましたが、その拘りや潔癖が極端になったのです。そんな潔癖なのですが、お風呂に入るとこがなくなり、最初は数日で変わるだろう。とあまり重く受け止めていませんでした。ですが一年、二年、お風呂に入らなくなり髪の毛は伸び放題…
全く外に出ることがなくなり、それどころか部屋からも出なく、時々聞こえるのは自分の部屋の壁を蹴ったりしている音。
息子が通った所はふけがパンくずのように落ち、服の上から見える皮膚は人間の皮膚には見えませんでした。病院に連れて行きたくても、まず外には頑なに出ないし、人に会うなんてもっての他で、なすすべなく、往診を探しましたが見当たらず苦しい日々は丸三年経ってしまいました。小学生だった息子は中学三年生後半に…
小さな体系に合わせた学生服を一度も見ることなく、そして義務教育が終わって行く不安で私は「この子と一緒に死のうか?」と何度も何度も思いました。
でも長男・長女の事を思うとそんなこともできず…
田舎だからスーパーに行けば、行き会う主婦たちからは根ほり葉ほり我が家の事を聞かれ、またそこでも心無い言葉を沢山浴びて、私自身、自宅と職場の往復のみで買い物は地元以外で済ませるようになりました。
年が明け来年には中学卒業というまるで死の宣告のような時期に、ある日息子からのlineで「ママお願いがある。学校に行きたい。友達と連絡とりたい。高校に行きたい。でも勇気がないからママの力を貸してほしい。」と…
まさかのSOSに涙が止まらず、すぐに担任の先生に連絡したり私なりに全力で出来ることを探しました。
生きてれば何とかなるんだ。こんな日も来るんだ。と実感した日となりました。
登下校の時間帯に町に出て息子と同じ年齢の子達を見ることが本当に苦しかったです。
何でだろう?悪いことしてないのに…この気持ちってきっと同じ経験をした親御さんでなければ理解できないでしょう。
家の食事はまだNGで食費の負担も大きいですが、丸三年間あの子が苦しんだこと、そしてまだ苦しい中にいる事を思えば、食費の負担や下校時のお迎え往復一時間は親としてできる支えであり、一緒に入れる事。これって幸せなことですよね。
急には元には戻れませんが、素晴らしい担任の先生に恵まれ高校受験が出来、今は学校までバスと電車を乗り継ぎ一人で外に出て息子なりに頑張っています。あと数年で社会に出て行くまでに今までの空白の時間を少しでも取り戻せ自分の活かせる道に進んで行ってくれることを願っています。
母親としてこの子達との経験を通し、私は学校に行かない子供の気持ちと、そのことに悩むお母さんの気持ちが分かるようになりました。まさか自分の人生の中でこんな経験をするなんて…ですがこれらの経験は今の私にとって宝となっています。
世間からは理解されなくても良いんです。
その子に合わせた生活が大切、人それぞれの個性を認める事。
それも心のバリアフリーではないでしょうか?
私の職業は電子部品の製造業です。
私はものづくりに興味があり、製造業の会社で働きたいと思ったきっかけです。
マシンオペレーターとして、製造現場で作業を行っています。
具体的にはコンデンサの本体を造る製造工程で自動機の操作を行っています。
現場では、操作ミスをしないような確認作業がとても重要なので、集中力、慎重な行動が必要です。
周りの人とのコミニュケーション手段は口の動きを読み取って理解したり、筆談を使っています。
今の仕事は責任を持って任されているので、やりがいを感じています。
私は、精神の病気を診断されており、精神障害の手帳2級を持っています。
今回は、就職する上で大変だったこと、嬉しかったことを書きます。
軽い接客と体を動かす現職場に勤め、2年になります。
障がい者枠での就労です。
まず、大変だったことは、「病気の症状が出ているけれど、休むか早退をしていいのかを判断すること」でした。
症状が出ているときは辛い。しかし、このくらいで仕事に穴を開けてもいいのだろうか?まだ頑張れるのではないか?他の人は頑張れるよね?という葛藤が辛く、大変でした。
今では他人との頑張りを比べることをやめたため、自分の調子に注目して判断しやすいようになり、少し気楽になりました。
次に、嬉しかったことは、それに関連することです。
最近は、「とりあえず仕事に行ってみよう、あまりに酷いようだったら帰ろう」と決めています。
外に出られるようだったらとりあえず行く。
そう考えるようになったおかげで、最初は多かった欠勤日が大幅に減ったことは、とても嬉しいです。
病気には今でも困らされますが、その度に他人との比較はせず自分の調子と相談して働いて行けたらいいなと思います。